「ただ山頂を目指すだけの登山は一度もしたことがない」
自然保護団体 白神倶楽部の5代目会長を務める東海林政美さんの、その声に圧倒される。 深浦町(旧岩崎村)出身の東海林さんは高等学校を卒業してから東京で就職し、昭和58年ごろ、家業を継ぐためUターンして地元へ戻って来る。「帰って来たなら一緒にやるべ」と白神倶楽部の初代会長であり、中学時代の山岳部の顧問でもあった鹿内さんから声を掛けられたことがきっかけで白神倶楽部に入会し、昭和59年に始まった白神岳避難小屋の建設作業と令和元年に行われた修復作業両方に尽力する。
四季折々の花を見たり、景色を写真に収めたりと山の楽しみ方は十人十色であるが、彼の山との関わり方はどうやら一般的なアウトドアのイメージとは離れているようだ。山頂を目指さずに、どこへ向かうのだろうか。
岩崎村森林組合の職員として林業に携わり、13路線の林道整備に関わる。山での仕事を通じて人の輪が次々と繋がり、交友関係の多くは白神で出会った方が多くを占めている。現在もその生活は続き、「登山道の刈り払いとか、避難小屋の窓枠を直したりペンキの塗り直しをしたり、何かの作業をするために白神に入る。ピクニックや山菜採りなんかは一度もしたことがない」と語る。山仕事の経験のない者からすると、そんな風に山に入ることはなんだか辛く苦しいことのように感じてしまう。しかし東海林さんは、さも楽しそうに白神山地でのこれまでの出来事を教えてくれる。
入山時の必携アイテムは携帯スピーカー。現場に向かう朝はフレディ・マーキュリー、作業を終えた帰り道は吉田拓郎。時にはレゲエを聞きながら歩き、白神への愛を想う。音楽への深いこだわりを感じる。取材の最中はコーヒーを絶やさないよう気を遣ってくれる。ドリッパーはお手製で、廃材を加工して道具にするのが得意だという。白神倶楽部の集会場所に置いてあるベンチやテーブルは東海林さんの作品だ。昼時を迎え、いつも山で食べているという「納豆ラーメン」を用意してくれた。ラーメンの上に納豆を乗せるだけかと思いきやレタスに卵と具材も豊富で、ここにもこだわりを感じる。大きな手で具材を鷲掴み、鍋に具材を入れる姿はワイルドだ。出来上がったラーメンを食べながら、そのどんぶりをひっくり返しそうになるほど激しい身振り手振りでまた喋る。秋田訛りが混ざるその語りを浴びるように聞いていくうちに、どんどん東海林さんの世界に引きずりこまれるような感覚に陥る。
白神の山中で道を失った話や、思わぬ崖登りになった話も聞かせてくれた。しかし、それらの苦い思い出の結末も、全て仲間と酒を交わして笑いあうシーンで締めくくられるところに、東海林さんの人を大切にする温かい人柄がにじみ出ていた。たとえ山頂にたどり着かなくとも、山で仲間と過ごした時間そのものに価値を見出す。東海林さんにとって白神山地は「人とのつながり」そのものだという。その美しい言葉と取材中の強烈なおもてなしにより、すっかり東海林さんの虜になってしまった。まだまだ話を聞きたいし、この取材をきっかけに私もその「つながり」に加えて貰えるだろうか。東海林さんの大きな手を握ってみたい。いつか白神でオクラホマミキサーを踊りませんか、と誘ってみよう。