「しらかみな人」とつながるインタビュー 昌子の いつか白神でフォークダンスを。

第19回目 佐藤 和雄さん  深浦町猟友会

「良いことも悪いこともあった55年の狩猟人生」


──里山の暮らしに根付く狩猟


私が暮らしている岩崎地区では古くから山菜やキノコ、獣肉などの山の恵みを求めて奥山に向かうことは普通の事で、私も年頃になると自然と山に足が向かいました。 中でも狩猟の道を歩んだきっかけには、兄たちが猟銃を持って山に向かう姿に憧れがあったことが影響しています。幼心に銃という武器にロマンを感じたのですね。


地元ではクマ猟の事を「熊撃ち」と呼びます。熊撃ちの作法を教わるため、私は師匠のあとをついて山に入りました。 熊撃ちは4~5人の集団で奥山に分け入り、それぞれが役割を持って猟を行います。 クマ以外にもウサギやヤマドリなども相手にしますが、特にクマは貴重な山の恵みとして扱う一方、人里に下りてきてしまえば農作物を荒らし人間に危害を加える害獣にもなるため、地元の人間にとっては最も重要な狩猟対象でした。


熊撃ちを始めて10年間は銃を使わせてもらえず、「勢子(セコ)」という役につきました。勢子は撃ち手のいる方向にクマを駆り立てる役割のことです。 クマは逃げ道や隠れる場所を求めて猛然と山を駆け回りますから、それをいかに撃ち手に仕向けるか、まさに勢子とクマの力比べ、知恵比べです。おかげで山の地形や沢の出会などを覚えこみましたし、狩りに必要な知識と経験を積みあげることができました。 そうして熊撃ちの場数を踏み、いよいよ憧れていた猟銃の撃ち手になった訳です。初めてクマを撃った時の「当たった」という、あの瞬間は今でも忘れないですね。


──ここだけ!熊撃ちインサイドストーリー


わずか1メートルほどの距離に親子連れのクマが現れたことがあります。 とっさに銃を構え、間一髪で親の方を仕留めました。しかしあまりの出来事に気が動転し、その場に30分くらい座り込んでしまったのです。 ふと気づくと、子クマが横たわる母親をじっと見つめていました。その姿にたまらなくなり、近づいて抱きかかえると逃げるそぶりは無かったので、そのまま私のザックに入れ山を下りることにしました。 子クマはその後十二湖の貸しボート屋で飼ってもらえることになり、26年の間大切に育てられたようです。


またある時は、海が見える岩盤で昼休憩をしているうちに、気持ちよくなって1時間程寝てしまった事があります。 鼻の辺りに何か変な感触があって目を覚ますと、目の前にはカモシカが。カモシカにベロベロッと舐められて目覚める人なんて、日本中探しても私くらいかもしれませんね。 他にもクマの巣穴の真上だと気づかずにのんびり昼寝していたこともありました。クマの気配に気づいた時には大慌てでしたが、今となっては笑い話ですね。


──森と動物と私たちのこれからを考える


猟を始めて55年。良い事もあれば悪い事もありましたけど、みんなで笑いながら仲良くやれたということはものすごく良いことだと思います。いい仲間ができたことが何よりも嬉しいのです。

これからの世代の方の中には人里で有害捕獲されたクマを撃つ人や罠で猟をする人はいても、山奥に分け入って撃つ伝統的な猟はする人は私らの世代で最後でしょう。だからといって威張っている訳ではなく、そういう時代になったということです。

しかし、白神の森にはいまもたくさんのクマが生息していて、私ら人間の生活とも深く関わっていることは変わっていません。生態系を守るためにはクマの生息数を保たなければなりませんが、必要なときには撃つべきだと考えます。人間の生活を守るのは人間です。 これからはそういったバランスを慎重に取りながらクマや自然そのものと向き合っていかなければならないでしょう。


取材後記
自然の中で獣と相対してきた佐藤さん。雰囲気は穏やかながら、凄みのある経験談をお話しされるときの鋭い眼差しが印象的でした。あの黒く大きいクマと急峻な奥山で対峙するのですから、私なら想像しただけで怖気づいてしまいます。佐藤さん然り白神の狩猟者たちのたくましい様子に驚かされました。


(取材・文・編集/白神山地ビジターセンター 川島昌子  撮影/小田桐啓太)