「今伝えたい、あの日の西目屋村のこと」
―─実体験から知る。西目屋村の炭焼きについて
15歳のときに親父に連れられて初めて炭釜のある山に行った。初めの一年間は親父や親父の兄弟が炭を焼くところを見ながら仕事を覚えて、次の年には独り立ち。当時は村の男性はほとんどの人が炭焼きをやっていたんだよ。うちでは大工仕事で忙しい親父に代わって私が炭焼きを任されたんだ。
各戸それぞれ自分の炭窯を持っている。わが家の炭窯は嶽地区にあって、家から歩いて片道2時間半ほど掛かった。今の人には信じられないかもしれないけど、当時はそれが当たり前だと思っていたから辛いとも思わなかったよ。 炭焼きは木の切りだしから始まる。今でこそ木を倒すのはチェーンソーが主流だけど、当時私たちが使っていたのは手ノコ。木の太さによって刃の長さが違うノコを使い分けていた。
炭に使う木材は広葉樹で、主にナラ。国有林から炭焼き用の山林として個人に割り当てられた区域から切り出してくるんだ。区域によっては材の質に良し悪しがあったもんだ。切りにくい場所が当たった年は大変だった。
作っていたのは白炭。釜の中でゆっくり冷ます黒炭と違い、焼き上がり直後の高温の炭に灰が入った白っぽい粉を掛けて冷まして作るから出来上がった炭が白くなる。炭同士をぶつけるとキーンと金属のような音が鳴るくらい硬くて、火持ちが良いのが特徴だ。 釜は赤くて柔らかい性質の「甘石」という石をイグルーのようにらせん状に積み重ねて作っていたな。自分たちが使う炭窯は自分たちで作るんだよ。
窯に火を入れて「戸石」という石で蓋をしたら家に帰って焼き上がりを待つ。釜の後ろには「クド」という煙を逃がすための通気口がある。クド石という堅い石で隙間の広さを調整すると出て来る煙の量が変わり、炭が焼ける時間を早くしたり遅くしたりできる。
良い炭を作ると思うと2日くらい時間を掛けたいところだけど、商売を考えるとやっぱり次の日には取り出したいところだな。 煙の調整はなかなか難しいものだけど、私は5~6年かけてコツを掴み21歳の時に県の品評会で一位を取ったことがあるんだよ。 出来上がった炭を集落に運ぶのは村の女性たち。山と集落を一日に何往復もするんだ。この姿が目屋人形のモデルだな。
昭和30年代ごろまでは暖をとったり煮炊きをするために炭が多く使われていたけど、時代が変わり化石燃料が使われるようになってから炭焼きをする人はどんどん減っていった。西目屋村ではとうとう私と私の叔父が最後になった。
― 西目屋村で過ごした青春時代
私が若い時はこの村にも若者がたくさん居て、それは賑やかだったんだよ。 集落対抗の野球大会があって、そこでいい成績を残すために炭窯での仕事が終わり往復5時間の道のりを帰ったあとでも休むことなく練習に励んだものだ。思い返せば随分体力があったと思う。
盆踊りは盛大だった。正月には歌や踊り、劇などを披露する演芸会もあった。みんなそれらを楽しみにしていた。 演芸会で披露する演目の稽古場が若い男女の交流の場だった。そういう場所で青春時代を過ごしたものだな。
― 猟で出会った白神山地の生き物たち
猟はかれこれ30年間続けてきた。今はもう免許を返納してしまったけど、2年前まではライフルを持っていたんだ。イノシシ猟をしに島根まで出かけて行ったこともあるほど、獲物を捕らえるのは楽しいものだった。 私が若い頃は山のあちこちにノウサギがいた。だからウサギ狩りが盛んだった。でも最近ではすっかり見なくなってしまった。どこに行ってしまったんだろうな。ツキノワグマやカモシカは今でもよく見るけど。
クマを探しに奥山まで入ったある日。獲物のクマを視界に捉えてすぐ、別な黒いものが見えたんだ。クマゲラだ。クマゲラは二羽が体をぴったりと重ねていた。あれはつがいだったのだろうか。当時はクマゲラの名前も知らず本州では珍しい鳥だなんて思わなかったけど、今となっては貴重な瞬間だね。
- 世界自然遺産登録前の白神山地を知るからこそ思う
津軽峠の近くに乱岩ノ森というところがある。 私が18歳の頃の冬、村の若者が猟をしにそこへ向かったんだ。赤石川の手前の方まで行くと崖があり、冬場は雪庇ができる危ない場所だ。
仲間の一人が前方を歩く二人に向かって「危ないからそっちへ行くな!」と声を掛けた瞬間、雪崩が起きて雪庇が崩れ、二人は落ちていってしまったそうだ。
真夜中、自宅で寝ていた私のところに捜索の依頼が来た。しかし私は恐ろしくて二人を探しには行けなかった。勇気がなかったんだな。後から聞いた話ではそのまま二人は命を落としてしまったそうだ。
白神は厳しい環境だ。鬱蒼とした森。岩だらけの崖。冬は雪と寒さで人を寄せ付けない。このような土地で生きるために危険を冒してまで山に分け入り命を落としてしまった先人たちを思うとどうしても心に暗い影を落とす。恐ろしい場だと感じてしまうんだ。